コシアカツバメ
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仏様とうって変わって生臭な話題である。なにしろ鯖そうめんだ。母親が「テレビでおいしいって言ってたから」ぜったいに食べに行くと言い張っていたので、長浜の街中をチェックしてたどりついた店。その番組での絶賛ぶりを見ていない私はかなり懐疑的だった。が、実際に出てきたお素麺は、焼いて脂を落としてから煮た鯖の旨みだけを吸い込んで美味。生臭いところなどまったくなかった。
店の人の話では、湖北地方のお祭りのときに出るご馳走なのだそうだ。日本海に近い土地だが、昔から山を越えて運ばれてくる海産物は、締め鯖にしろ焼き鯖にしろ保存がきく形になっていたのだろう。
このあたりの鯖寿司はじつは京都のものよりうまい。それに鮒寿司はおみやげからはずせない。あくまで自分用、独り占め~。って、誰もうらやましがらないのだけれど。
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この日の日中はお寺巡りにあててあった。
西野薬師堂
水辺から峰ひとつ隔てた、のどかな里にある薬師堂。十一面観音像と薬師如来像が並んでいる。堂守がいないので地元の人が交代でお世話されている。中を見るにも、当番の方に電話して鍵を開けに来ていただく。恐縮でありがたいことだが、戦国時代の昔から、湖北の観音様はみなそうやって地元の人が守ってきたのだという。
渡岸寺
有名な国宝・十一面観音像。2年前にたずねたとき以来、新しい専用のお堂(耐火金庫のような造り!)ができ、見学しやすくなった。しろうとでも吸い込まれるような美しさのある仏様。たまたま鳥用の双眼鏡を首にかけたままだったので、失礼して小面の詳細もよく見せていただいた(撮影は禁止です)。
石道寺
山すそにある、こちらも小さなお寺。十一面観音像は素朴だけど女性的な仏さま。
私自身は特に仏教徒とはいえないが、そういう文化の中で育ったものとして仏はありがたいものという感覚はある。これらの仏像は彫刻美術として世界に誇るべきものだが、それ以上に、仏様を有難いものとして崇め、戦火から守り大切にお世話してきた人々の心が観音像を貴重なものにしているのだと思う。渡岸寺の観音様が東京の博物館に来られたとき、人々はやってきてその美しさに感嘆したが、その価値のほんの一部しか伝わらないという点では、写真を見ているのと変わらなかったのである。
と、ここまで書いて、以前ハワイ島へ旅したときに行き会った小さい教会のことを思い出した。島の南部はキラウェア火山の噴火の脅威に常にさらされている。溶岩流が麓の村にせまったとき、村人は自分たちの家が次々と燃えあがる中、その礼拝堂をトレーラーで引いて安全な場所まで移したのだ。そのときの模様を教会の外に座っていた女性から聞いたときは柄にもなく涙がこみあげたのを覚えている。(彼女は溶岩のことを火山の女神の名前で呼んだ。「ペレがすぐそこまで迫ってきていて、私たちにはほんとうに時間がなかったの・・・」)
この教会も内部の全面に壁画があってちょっと有名だったりするのだが、このエピソードは絵そのものの何倍も美しいと思う。戦国時代、焼き討ちから観音像を守るために土に埋めて隠したという話とまったく同じ、人々の生活に根ざした信仰と愛着というものがいかに強いかを示す証左だからである。
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5:30 早起きして湖岸の散歩に出る。オオタカらしい姿が背後の山から岬のほうへ飛んでいくのが見えた。岸が入り組んでオギが生えているあたりにオオバンの巣があった。
ヒナは全部で3羽。バンのヒナに黄色いたてがみをつけた感じで、頭は赤い地肌、体は黒い綿毛に覆われている。可愛いのかどうかは微妙だ。(私はカリフォルニアコンドルに似ていると思う。)くちばしの先は白い。

親鳥は1羽が巣を守り、もう1羽が緑色の藻類を集めてきてヒナに食べさせている。あまり旨そうに見えない食事だが、ヒナは親が来ると駆け寄って餌をねだる。
近くではあと2つがいが営巣を始めようとしている。餌集めに夢中になった1つがい目の親鳥がうっかり隣の縄張りに侵入し、激しい争いが起こった。
左側の2羽(重なってる)がヒナのいるつがい。手前の鳥の蹴りが入っている。右側のつがいは、巣にいた1羽が遅れてかけつけたところ。こういうときでもオオバンは飛ばない。水面を走ってくるのだ。
キックの応酬がおさまったところで隣人たちはそれぞれの巣に戻る。最初のペアも、何事もなかったかのようにヒナと平和にすごす。
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湖岸を北上して、きょうの宿につく。水辺に立つ温泉宿。こぢんまりしたロビーには望遠鏡が備え付けてあって、目の前に来る水鳥を観察できるようになっている。カイツブリ、カワウ、カルガモのほかにオオバンが多数。カンムリカイツブリ、ヒドリガモ、キンクロハジロの姿も少数みえる。ふだんのフィールドでは冬鳥の面々だ。冬にはもっと多くの種類が大群で来るそうな。
部屋からの眺めはさらにすばらしい。きれいな空と広い湖面が見渡せる。向かいには右手から湖面に突き出した岬と、その突端である竹生島。眼下には隣の漁港から出た小舟が、水鳥と一緒に浮かんでいる。反対側には砂嘴がいくつかあって、柳の木(多分)が一列に並んで生えている。
大浴場へいくと平日なので貸し切り状態。ここからもはやはり湖を望む。屋根下に営巣しているツバメの幼鳥がすぐそこの手すりにとまりに来る。しっぽは短く、くちばしの端も黄色くてまだヒナヒナしている。人を恐れず、キョロっとこちらを見上げる様子があまりに可愛いので、よほどカメラを取りに部屋へ戻ろうかと思ったが、さすがに女湯にでかいカメラを持ち込むのはまずいだろうと我慢。
露天はカイツブリやオオバンと一緒に泳ぐ感覚。アシの陰にカンムリカイツブリが2羽いると思ったら、向かい合ってダンスをする求愛ディスプレイを始めた。こんどこそカメラを取りに戻ろうかと考えたが、さすがに(略)
湯あがりに散歩に出る。夕陽が目の前の岬に沈む。砂嘴のシルエットが逆光に美しかった。
夕食はすき焼きをお願いしていたら、ちゃんとお砂糖とお醤油を使う関西風だった。このあたりが分布の東限だそうな。それに琵琶湖固有種のビワマス(アメノウオ)のお刺身、サケより柔らかく脂が乗っていて絶品。色は透明感のあるオレンジピンク。ここでしか味わえないところがまた貴重。イワトコナマズの煮付け、これも琵琶湖では湖北にしかいないらしいが、ナマズのように泥臭くなくてふわりとした風味。小ぶりの鮎。鮒寿司などなど。
その後ホタルを見に連れて行ってもらう。田んぼ脇の水路に、はかない光が静かに息づいていた。アマガエル多し。あと何だかわからないけど暗い水田で「キィ」と鳴きかわす鳥。
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京都駅から1時間で琵琶湖の内湖・西の湖に着く。内湖とは、琵琶湖本体からはみだすようにできている小さい水域のこと。水深は浅く、アシ原が生い茂って、本体とはまた違った環境をなしている。ここを和船で案内してくれる水郷めぐりへ。
船は手こぎ。ときどき櫓がきしむほかは、音もなく水面を進んでいく。そのほかに聞こえるのは船べりを舐める水音や、アシの葉ずれくらい。普段の生活じゃ、「静けさ」がいちばん手に入りにくいもの。船の揺れに身をまかせ、ゴザの上でのんびりする。
オオヨシキリが数え切れないほど営巣していて、せっかくの静寂をかまびすしく破る。ほかにセッカ、ヒバリ、カイツブリがさえずる。
水路の両側のアシはまだ伸びきっていない。去年の枯れた茎は水面から2メートルくらい。上空から見たら、アシ原は緑に薄茶色の霜降りに見えるだろう。根元にカイツブリが営巣しているあたりから開けた場所に出ると、鏡のような水面に、安土城跡のある安土山が映っている。ちょっと水墨画のような風景。写真は…とったけど揺れてて全滅。やはり旅の景色は目と心に焼きつけるのがよろしいようで。
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バンのヒナを見に行った。まっ黒くろすけに赤いくちばしをつけたみたいなのがたくさん、池の縁をうろついている。大きさはまちまち、まだ親から餌をもらっているのもいる。そしてなんとこいつらには手の指がある。ワニのいる川の上に張り出した木に営巣するツメバケイじゃあるまいし、その指はいったい何のためなのだ・・・
親はやたらと攻撃的で、ヒナを狙うカラスを威嚇するのはもちろん、カルガモ、カルガモ雛、池を泳ぐコイなど目の前で動くもの何にでもつっかかる。自分のヒナもたまに攻撃する。そういえば以前ドブネズミと闘うバン親鳥を見たことがある。地味な印象だが意外と凶暴なのだ。
小さい池はただいまバンとカイツブリ、カルガモが共同使用中。周囲のコナラの植栽でコゲラの若いのをみかけた。4羽一緒だったので巣立ったばかりの幼鳥かも。すごい枝かぶりだけど、足指をふつうの鳥のようにしてとまってるのが面白いので・・・
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『ハチはなぜ大量死したのか』が売れているらしい。世界各地でミツバチの失踪が問題になっていて、ウィルス、寄生虫、農薬、さまざまな原因が考えられている。邦題はその謎解きの部分を強調するかたちになっている。
そういう読み方もある。が、どちらかというと著者がいいたかったのは、そのように問題を個別の要因に還元するアプローチを捨てよとの提案であろう。
原題の Fruitless Fall (実りなき秋)はレイチェル・カースンのフレーズであり、Silent Spring (沈黙の春)と対をなす。昆虫を中心とした花粉媒介者がいなくなれば、木々や草に実はならない。森は針葉樹だけとなり、われわれの食卓はイネ科植物由来の食品に頼ることになろう、という警告である。
ミツバチは、いうまでもなく花粉媒介業に特化した生物。大昔に祖先が花々とかわした契約を誰よりも真剣にうけとめ、忠実に(過度なまでに)実行してきた。被子植物の繁殖に貢献しようとするあまり、みずからの繁殖方法をかなり特殊なものとしてしまったほどだ。
かれらの生活は、自然がわれわれに課した有性生殖という縛りにたいする一種の挑戦といえる。知れば知るほど、個体とはなにか、性とは何かがわからなくなり、当たり前のことと信じている世界が揺らぐ。
ミツバチの生活についてはほかにも魅力的な著作がある。メーテルランクの『蜜蜂の生活』 La Vie des Abeilles は100年とすこし前、科学と文学が一体だった時代の出版。このあとの100年間、科学はひとり突っ走って文学をおきざりにしてきた。詩人がいまの蜜蜂の状態をみたら何というだろう。おそらくジェイコブセンの主張に同意するのではないだろうか。
生物の最初の授業で、花を観察するときは訪れる昆虫に注意するように教わった。今後、ポリネーターを無視して花だけを愛でることはすまい。それが何万種という美しい花々の、たった一つの願いなのだから。
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夜10時、散歩に出てみた。おりしも昇ってきた下弦の月が支流の水面に映っている。橋を渡って5分も歩くと水田があって、アマガエルの合唱があたりを圧している。空気は濡らした手のようにひんやりして、日中の熱気がこもった額を冷ましてくれる。田んぼのむこうの木立からのぞく月。手前の茂みには気の早いホタルがちらほら。
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日暮れ前に支流へ散歩にいくと、橋の上で子供たちがコイを釣ろうとしていた。中になんとなく様子の違う魚が混じっている。色がまっくろ、くねくねしたシルエット。でかいナマズだった。それも2匹。
やはり見物していたおじさんの言うには、ナマズはふだん本流に住んでいるけれど、今頃になると産卵のため浅瀬を求めて支流に上がってくるのだそうだ。
橋の下からカメが泳いできた。これもただのアカミミだと思ってたら、首が長い。スッポンだー。
さらに歩いていくとなにやら長いものが水面を泳いで渡っている。今度は1メートルほどのウナギだった。川魚料理屋ができそうな面子が住宅街の小川に・・・
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14:00 雨のちくもり
石の河原のあるあたり。コチドリとコアジサシがそれぞれ2,3つがい、ヒバリ、セッカなど飛び回っている。
コアジサシの1羽が河原に座り込んでいるところに、もう1羽が魚を持ってきた。そのあとすぐ立ち去らず、そばに立ってきょろきょろしていると思ったら。
よくみると2羽とも右脚に脚環をつけている。ウェディングリングというわけではないだろうけれど・・・
このあとメスは最初と同じ場所に座り込んだけれど、トビが来たりすると定位置を離れることも多く、卵はまだないような気がする。オスはときどき餌を運んでくる。
イワツバメ営巣場所も見に行く。巣を直接見るにはかなり勇気と身の軽さがいる場所。巣立ち雛はまだ出てきていないようだった。
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