2017年6月13日 (火)

ちおいん

旅館の横からさらに上へ登る道もあったけれど、時間がないので降りることにする。おすすめ観光ルートであれば、もと来た公園を通り抜けて神社へ行くところだけれど、今回は仏教寺院で締めくくりたかった。だから出発点のお寺の裏口から入り、境内を抜けて山門から出る。

ここの山門は国宝である。朝7時台、観光客はまだ到着していなくて写真も撮りほうだい。

Dsc_1531_00003山門のすぐ外から境内を振り返ったところ。

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それで、なぜ神道より仏教が好みなのか、という話だった。ものすごく単純化した自分なりの理解によると、宗教とは自然の力に翻弄される人間がそれに適応するために編み出した方法である。災害にあったり、病気が流行ったり、そういう苦しみをどう防ぐのか。

そのために自然の力の水脈がどこにあり、いつ・どう働くのかを読み解こうとする努力が神道である。そして儀式の持つ魔術的な力によってそれを操り、自分たちにとっての苦のもとを防ごうとする。アニミズム的な考え方だけれど、自然を客体として見る態度は近代の科学にも似ている。

仏教は逆に内へ向かう。自分の心を突きつめて解放すれば、現世のいかなる苦も苦とはならぬ。それには「仏様、お願いします」とひとこと祈ればいいのだ。いとも簡単ではないか(その辺の方法論は宗派によるけど、ここのお寺は「ただ祈れ」派である)。

こちらの方がずっとシンプルだし知的だ。奈良時代にこの思想が輸入されたとき、それまで神道的な考えになじんでいた人たちにはものすごく洗練されたモダンなものと映っただろうとは想像できる…その驚きは、故郷を再発見しつつある自分のものでもある。

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ねこぼう

昨日のつづき。今回泊まった場所と、そこから歩き回ったのは東山のふもと、とある大寺院の境内ともいえる狭い範囲。かかった時間は朝5時からの2時間ほど。だけど観光客でにぎわう繁華街からサルやムササビの出る山中までにまたがっている。

まずは街から。こちらは公園内にある有名店の看板にいた親子

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おなじく公園内、明治時代の名建築。ピンクの外壁が朝日に映える。右はそこから少し坂を登ったところにあるきのうの墓所、ボダイジュの下からながめる景色

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墓所の裏からさらに細い坂道を登る。だんだんと緑が濃くなり、空いっぱいにかぶさる木々の下に、由緒ありげな料亭や小さいお社などがひっそりと建っている。

さらに急な石段を登ったところに小さなお寺があった。境内ではキビタキがさえずっている。出発点から直線距離で500メートルも離れていないのに、もうすっかり山の中の環境である。

石段の上から市街と西方を望む

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お堂の外にあった貼り紙がなんとも可愛い。「烏やお猿がいたずらしますので扉を閉めてあります…ご自由に扉を開けてお参りください」 『鳥の仏教』のような、仏様の前で動物や鳥たちが遊んでいる図が浮かぶではないか。

右はその近くでとっても気になった旅館。帰ってから旅館のホームページを探して見ると、フクロウやムササビも訪れるとある。泊まってみたい…

このあたりの雰囲気は、バリ島のティルタ・ガンガや、ラオスのルアンパバーンにも少し似ている。いずれも古い都であること。山と街が近いこと。大きなお寺があること(バリはヒンドゥ寺院だけど)。

山道を降りながらこの組み合わせについてちょっと考えてみた。京都の街は三方を山に囲まれ守られている。余所者からは攻め難いし、琵琶湖から吹く冷たい風や雪もさえぎられる。

ただし、山は脅威でもある。災害、山に棲むけものや人ならぬ者たち。それらから住民を守るために、東山の麓には大きな寺院が並ぶ。水も漏らさぬ布陣といえる。

もうひとつ。この麓には大きな神社もある。ただ自分は典型的な無宗教の日本人だけれど、お寺の方がずっとなじむというか安心感がある。どう違うのか?それは次回、帰り着いたお寺の境内にて…

 

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2017年6月12日 (月)

ボダイジュの花

法事のため故郷の街に帰ってきた。お寺の境内にボダイジュの大木があって満開。小さく黄色い花の房が枝先にびっしりついている。見ためは目立たないが、強い芳香があたりに漂う。

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ボダイジュは仏教で大切にされる木だ。お釈迦様が木陰で悟りを開いたというインドボダイジュの代わりに植えられている。(本家の方は植物園の温室にある。まったく別系統な上に似てないけど。)

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木に咲く花は好きなのに、いつもながら思ったように撮れない。でもこれから毎年この時期に来ることになるだろうから、少しは上手くなるかも…

翌日までいる予定なので、午後はホテルの部屋に荷物を置いて散策する。故郷といえど泊まるべき実家は今年からなくなっており、宿をとって滞在するのは不思議な気分だ。

自分はもと住人であり土地の言葉も喋れるのに、あまたの外国人観光客とおなじ訪問者の一人になってしまった。寂しい気がする一方で、自由になった気分でもある。

観光客の目になって歩き回る。水路ぞいの道や、有名どころの寺院。

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右の庭ではキビタキがさえずっていた。ここは街と山が近い…というか、山のきわに街を作り、結界としてずらりとお寺を並べてあるのだ。

子供のころ住んでいた家は同じ山並みの先にあった。やはり大きな禅寺の裏で、托鉢僧が各戸を回ってくるようなところ。

そうか、こういう自然と街とお寺が隣り合っている環境を居心地よく感じるのは、育った場所の影響なのだ。翌日はこの「山・街近接」をもう少し探求するべく、早朝から出かけるつもり。


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2017年6月11日 (日)

アオゲラ 今年も巣立ちました

サクラの幹にあったアオゲラの巣、無事に巣立ちが終わった。エナガと一緒で、営巣開始の頃からひっそり見守っていたもの。

4月下旬につがいが巣穴に出入りしているのを見る。この時点で産卵は始まっていたかもしれないが、抱卵はまだしていなかったと思う。

5月下旬、巣から離れた場所で雄親が切り株や木の幹で餌を集めていた。写真で確認するとごく小さいアリで、まだ幼いヒナ用と思われた。

6月になって、餌運びがいっそう盛んになった。下の場面は、雄親(左)が到着したところ。入れ違いで先に給餌を終えた雌親(右)が飛び出す。

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雄は口いっぱいにアリの卵か蛹らしい餌をくわえている(実際にはくわえた状態で飛んで来るのではなく、そのうにたくさん詰め込んできて巣の近くではき戻す)。

最初に目撃してからほぼ6週間後、3日間でおそらく7羽が出た。下は4羽目。木の上で親鳥が呼んでおり、それに応えて鳴きながら穴から直接飛びたった。

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2017年6月 6日 (火)

コチドリの親子

ハクセキレイ親子を見たのと同じ工事現場には、コチドリの家族も住んでいる。

5月31日に初めてヒナ3羽を確認。そのときはまだ卵が残っているらしく、親が同じ場所に交代で座り込んでいた。

翌日、ヒナの数は4羽に増えていた。敷地に入り込んで撮影する者がいたり工事の準備が始まったりしてからは、反対側の一角に引っ越して暮らしている。

この時期、天気が悪い朝はまだ肌寒かったりする。ヒナは歩き回って体が冷えると、親鳥の羽毛にくるまって暖をとる。

これはヒナを抱え込む雌親。過眼線から耳羽は褐色で、胸のリングは細い。それにしても、これだけ大きくトリミングしても一目で鳥の形が分からないくらいの保護色はすごいと思う。

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下は雄親、過眼線が黒く、胸のリングは太い。

2羽のヒナに「さあ、早く入りなさい」と翼を上げて見せているが、おもしろいことに腹の抱卵斑も拡げているのがはっきり写っている。白い羽毛のつけねが黒く、無毛の赤い皮膚と縞をなしていることが見てとれる。

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この抱卵斑のおかげで、ヒナは親鳥からじかに温めてもらうことができる。赤黒白のはっきりした配色は、まだ親の庇護が必要なヒナにとって「安全な隠れ場所」の信号になっているのかもしれない・・・と思った。

下はその数秒後のショット。1羽目のヒナはすでに羽の中にもぐりこんでいて、2羽目が入ろうとしているところ。

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2017年5月31日 (水)

ハクセキレイの親子

工事現場の空き地にて、巣立ったばかりらしい幼鳥2羽をつれたハクセキレイに出会った。

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さかんに餌を運んできているが、ヒナはなかなか満腹しないで親鳥を追いかけまわす・・・ たまらず建物の屋根に逃げた親を追って2羽とも飛び上がった。この調子だと元気に育ちそう。

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2017年5月30日 (火)

オオヨシキリとコヨシキリ

朝6時、自宅前の公園から普段と違う鳥の声がする。ピロピロピーというメロディに続いて、グワッグワッと蛙のような声も。この組み合わせはつい2日前に聞いた、コヨシキリだ。水辺でもないのになぜいるのか不明だが、たぶん移動中だったのだろう。カメラをつかんで外に出た時にはもう声はやんでいた。

日曜日のこと。岸にオギ、アシ、ガマなどが茂っている小さい池に行くと、毎年くるオオヨシキリに混じってコヨシキリの声がしていた。ここではちょっと珍しい。

しかし。オオヨシキリはアシの先など目立つところで鳴いているのですぐわかる。コヨシキリも同じはずなのに、なぜか姿が見えない。

声のもとを探すと、去年のガマが枯れて倒れて水面を覆っている下にひそんだまま鳴いているのだった。一度だけちらっと出てきたが、またすぐに潜ってしまう。さえずりは堪能できても、写真はとれずじまい。

そんなに完全に隠れているのは、オオヨシキリが原因のようだった。縄張り性が強く、相手が同じオオヨシキリでも他の種でもすごい勢いで攻撃する。狭い池なので、争いもその分激しくなる。

コヨシキリはガマの茂みから出てアシの方へ移ったときに見つかって襲いかかられ、追い回されて姿を消してしまった。その後声を聞かなかったから、よそへ移動してしまったのかもしれない。

下はオオヨシキリどうしの争い。後ろに見えるフェンスに相手を追い詰めてかみつくほどだから、体の小さいコヨシキリに勝ち目はなさそう。

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2017年5月27日 (土)

鳥の仏教

『鳥の仏教』 中沢新一著、新潮社

チベットにて、子供から大人まで広く親しまれている一般向け経典を、はじめて日本語に訳したもの。

色とりどりの鳥たちが、インドとチベットの境の森に集まって仏の教えを語る。子供にもわかりやすい言葉と色あざやかなイメージで、ダルマの智慧がひとつずつ説明されるのだ。

表紙やイラストに描かれている姿はミドリテリカッコウ Asian Emerald Cuckoo であるようだ。ヒマラヤ山脈から東南アジアにかけて分布。エメラルドグリーンの、宝石のように美しい姿だが、体長17cmというからずいぶん小型のカッコウだ。

ただ、観音菩薩の化身というのであればもう少し大きい鳥の方がさまになる気もする。本文では「カッコー」と鳴いているのでふつうのカッコウ Eurasian Cuckoo なのかもしれない。

この姿は日曜日に杉の木の上で鳴いていたカッコウ。仏の教えを説いているように見えるだろうか?

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カッコウは托卵習性のせいで我々にはあまり印象がよくないが、チベットでは春になると大きな声で鳴き、自然界の再生を告げるものとして、聖なる存在とされてきたそうだ。

仏の教えを聞くために集まった鳥たちをまとめるのは「オウム先生」である。表紙にはワカケホンセイインコのような姿が描かれている。その他、本文中に美しいイラストで登場するのはヒバリ、クジャク、インドチョウゲンボウ、ヤマウズラ、などなど。

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2017年5月21日 (日)

まぼろしの龍

先月もいちど載せたけれど、植物園を流れる小川の水面を撮るのにはまっている。

水、風、光がつくる形のない形なのでバリエーションは無限にある。つまりいくら撮ってもきりがないということで、ワケのわからないショットを大量生産することに。

けれどこの水面の揺らぎ方がちょっとサイケデリックな、トランス状態を誘うようなリズムを持っているために止められない。半分酔っぱらって撮っているようなもの。

サイケついでに,、龍の頭のように見えなくもない一枚を… 龍は天と地を循環する水の象徴だから、まあ写ってもおかしくはないのだ。

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カイツブリの朝ごはん

池のカイツブリ家族、きょうの朝ごはんはザリガニの活け造り

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そのままでは大きすぎるので、親はザリガニを振り回してまず頭を落とし、それから身を小さくちぎってヒナに与える。

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ちぎった身をヒナに食べさせている間、残りの本体を載せておくテーブルはない。どうするのかというと、単に水の中に落としてしまうのだ。当然沈んでいってしまうが、カイツブリにとっては問題ではない。ちょいと潜って拾ってくればいいだけだから。

そうやって柔らかそうなところを順番に食べさせて、最後に残った硬そうな尻尾は自分で呑み込んでいた。

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